日暮れて途遠し、それでも㋧どこまでも、いつまでも、山谷越え・・・

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「晏子春秋」 内編諌上第一 凡そ二十五章 第四

「景公、酒を飲むこと七日、弦章(景公の臣)の言を納れず、晏子諫む」


【景公の飲酒を諫む】
景公は酒を、七日七夜、飲み続けて止めない。
弦章が景公に注意を促して言うには、
「君は、酒を七昼夜も飲み続けています。私が願うのは、酒を止めて頂き、私に死を賜りたい。」


晏子が心配して二人がいる部屋に入ってみると、景公が言うには、
「弦章がわしを諫めて言うには、願わくはわしに酒を止めて欲しい、然るに弦章に死を賜はらんと。この言い分を聞いて、弦章に死を言いつけるには忍びない。」


景公は処置に困った、諫言に従えば、臣下の言いなりになるようで面白くないし、従わなければ、弦章に死を命じなければならないが、それも惜しい。


そこで、晏子は言う、
「弦章は幸いでした。君が桀・紂(古代の二人の暴君)だったら、弦章はとうの昔に死んでいたでしょう。」


晏子のこの風刺を含んだ話に、景公はついに酒を止めざるを得なかった。


山田琢先生の注
【景公とても、絶対的権力を持つ君主で、その逆鱗にふれずに説得できるのは、晏子の人柄と話術の巧みさによるのであろう。】


↑の景公と章弦と晏子の話、出来過ぎの感があるが、こうしたことが、日常的にあったらしい。景公は晏子に注意されれば、素直に聞き分けるが、すぐに忘れてしまう。だったらしい。景公の治世は長い、それをずっと斉の執政として支えて来たことになる。


 事実、歴史のなかで、主君の逆鱗にふれ、死を賜ったり、中には族滅となることも珍しくなかった時代。斉国の三代の君主、霊公、荘公、景公に仕え、君主を補佐し、国の為に君主に対しても諫言し、直諫し、社稷の臣としての自己の立場を曲げず、それでいて生涯を全うした晏嬰。生年不明、没年は史記斉世家には斉の景公48年、紀元前500年とされている。
晏嬰 - Wikipedia
斉の大夫晏嬰が国政を執った。晏嬰は常に社稷(国家)を第一に考えて上を恐れず諫言を行い、人民に絶大な人気を誇り、君主も彼を憚った[82]。また質素を心がけ、肉が食卓に出ることが稀だった[82]。また狐の毛皮から仕立てた一枚きりの服を、30年も着ていたという[82]。晏嬰の手腕により景公のもとで覇者桓公の時代に次ぐ第二の栄華期を迎え、孔子も斉での仕官を望んだほどである。