日暮れて途遠し、それでも㋧どこまでも、いつまでも、山谷越え・・・

つぶやき、独り言❓【自分大好き人間】の好きな生き方、

 闘病記 ⑭ 管 夷吾(かん いご)または『管仲』

 中国史上最高の宰相と称される「管仲」本名は管 夷吾(いご)、春秋時代の斉の国の宰相。桓公に仕え、桓公を覇者に押し上げる。人との出会いが、国を歴史を作っていく『管鮑の交わり』から


 小説 「管仲」  宮城谷 昌光著


 何度、読んだかな。病院のベットで寝ているときの読書、一冊にはいいね!
無名時代の苦悩、生活の厳しさが、様々な人との出会いを浮き立たせ、管仲を成長させていく。しかし其処には貧しさが故、苦悩したが故の非凡なる物事の捉え方と、管仲独自の世界観と価値観がある。
 菅仲が貴族の出身であり、裕福であったなら、管仲の経済政策、農本主義による殖産産業の奨励と実行、また職業別の住み分け、家内工業の工業団地みたいなものは発想も生まれなかったかもしれない。

 春秋時代、周王室の力は弱まり、諸侯に向かって悪しければ非を問い、また匈奴の南進を防衛するための軍令を発したり、国家間の紛争を調停を王室に代わって行う覇者が必要となった時代。
 管仲は桓公を覇者の地位に付けた。それは管仲の政策による富国強兵の実現でもあった。
自薦ではダメで、行いが他の国々を介して、斉が桓公、が覇者にふさわしいと認めなければ
成立しないよね。でないとどこの国も斉の外交政策に従わない。
 当時、公子にすぎなかった頃の小白を、管仲は弓で射殺そうとする。着物の金属のバックルに矢はあたり、小白は一命を取り留める。
 当時、誰が国主の椅子に座るか、椅子取り競争の最中の事。
 


 しかし、桓公となった小白は鮑叔の上奏を取り入れ、管仲を国政の場へ引き上げる。
「国を治めるだけなら、管仲はいらない、君が、中華の覇者を目指すなら、管仲は必要!」
この言を取り上げた桓公は名君として歴史に名を残す。


                   が、


 桓公が亡くなった後の斉の国の乱れよう、内乱の激しさを想うと、はたして本当に桓公は名君であっただろうか?
 桓仲の政策に「諾」を与える事の出来る名君。桓仲を信じて国政を任せたともいえる。
管仲亡き後、管仲の末期の意見を取り入れなかったこと、この内乱によって斉は国力は著しく低下し、覇者の座からも降りる事になる。


 歴史の面白さは、斉の覇者からの陥落によって、新たな時代の覇者、晋の文公が表舞台に登場する。超大国、晋の時代の幕開けだな。


 私としては管仲と梁桂の文中の出会いだナ!いいね!そして、その後。
「物語には感動が無ければいけない。」これ、宮城谷さんの言葉だったかな?


 司馬遷の史記列伝の第二にこの管仲と晏嬰が記載されている。没落士分から立ち上がり、「民が富まなければ国は富まない」として、農本主義を中心に富国強兵を進めた管仲と、社稷の臣として斉の三君主に仕え、生涯にわたってその君主を導き、諫め続けた晏嬰。司馬遷は彼らが好きだったろうな。
  
 司馬遷自身、前漢の武帝(劉徹)の時代、ほとんど冤罪だな、それで腐刑にされる。金を払えば、罪は贖えたが、司馬遷は耐えて『史記』を書き上げる。
 司馬遷の『武帝記』は散脱して現存してないそうだが、司馬遷が武帝をどう見ていたか、これってとても興味深い!