日暮れて途遠し、それでも㋧どこまでも、いつまでも、山谷越え・・・

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「晏子春秋」 内編諌上第二 凡そ二十五章 第二十

「景公、路寝の台成り、逢迂何合葬を願う、晏子諫めて許す、」


【景公の造った道寝が民の墓地を侵したことについて諫める】


 公が路寝の台(政治の為の正殿)を作った。逢迂何(人の名、ほううか)は母が死んだので、父の墓に合葬しようと願ったが、父の墓所に路寝の台が建ってしまっていた。
 逢迂何は晏子の馬車の前に進み出て、丁寧に挨拶をした。晏子は馬車を降り、丁寧に挨拶を返して、晏子いわく、
「逢迂何、君は私に何が言いたいのかな?」
逢迂何、答えて曰く、
「父の墓に母を合葬したいのです。」
晏子曰く、
「難しいかな、でも私はあなたの気持ちを汲んで、景公に言上してみよう。しかし、もし願い通りにならなかったらどうするのかな?」
逢迂何曰く、
「晏子なら、なんとかしてくださるかと思いますが、私たち庶民にはどうする事もできません。母の霊柩車を左手で押して、右手で胸を叩いて、野垂れ死にし、四方の心有る人々に伝えるのです。『迂何は母を葬る事が出来なかった!親不幸ものだ!』と。」
晏子曰く、
「わかった。」
晏子、景公を訪ねて曰く、
「逢迂何と言う若者がいます。母が死んで、父親の墓に合葬したいのに、路寝の台の軒下に墓が埋もれてしまっているのです。」
景公、顔色を変え、不快な様子を露わにして曰く、
「古来より今まででも、君主の宮に合葬しようとした庶民の願いを聞いた事が有るか!」
晏子、答えて曰く、
「古の君主は、その宮室はおごそかにして、人民の住まいを侵しませんでした。
そして高床の台は倹約して大きくせず、死者の墓を損なう事はありませんでした。だから今もって君主の宮に葬る事を願う者は出ませんでした。
 今、君は、おごって宮室を造営し、人民の住まいを奪い、広く台樹を作り、人の墓を覆う始末。これでは生きている者は憂慮して安心出来ず、死者は別れて、肉親との合葬は出来されません。
 楽しみや遊びふけっていては、生きている人にも、死者にも、そのおごり侮りを隠せません。これは仁君、人の道にあるまじきことです。生者を安んずることが出来ないと、憂いを蓄えることになり、死者を葬る事が出来ないとを哀しみを蓄える事になります。
 それでも君は逢迂何を許しませんか?」
景公曰く、
「わかった、許す。」
晏子が退出すると、梁丘拠が曰く、
「古より今日まで、庶民を公宮に葬るなんて聞いたことがありません、君は許せますか。」
景公曰く、
「庶民の家を立ち退かせ、人の墓を損ない、人に埋葬を禁じて喪に服させず、庶民に施す事をせず、死者に向かっては礼を失する。これではいけない。」


逢迂何はついには母を合葬する事ができた。麻の喪服を着て麻の帯を締め、縄の靴を履いて、喪の冠をして踊って哀しみを顕わにし嘆かず、胸を叩いて拝まず、涙と鼻水だらけになって去った。


 この時代の喪の服し方、哀しみの表し方がとてもよく描写されている。この逸話、けっこう引用されることが多く、私も好きな話。晏子は絶えず、庶民の味方であった、はい。


似たような話、たしか「橋のない川」にあったな、奈良の・・・これ以上は書けない。