日暮れて途遠し、それでも㋧どこまでも、いつまでも、山谷越え・・・

つぶやき、独り言❓【自分大好き人間】の好きな生き方、

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ 私的意見

私のニーチェ、私の間違い? 私の私的見解です。


  ニーチェの著作の殆どは論文形式で書かれたものは少なく、初期の作品以外は、詩的な箴言の形式を採用しているため、その解釈の仕方によってはその根本も、人によっては異なってしまう可能性を持っているカナ?
 多くの著作は随所にアフォリズムを用いた、巧みな散文的表現で書かれているので、極端な事を言えば本来の表現しようとした意味を取り違えられる事も多いと思う。まして、ニーチェの言葉などとその詩的表現の一節だけを捉えれば。


 生きる本質、そのための価値感とは、キリスト教観念と価値観の社会から脱して、世界を見直したとき、世界は輝かしく生きた光に包まれ、そこにこそ人は生きる新たな価値を見出すべきだと、思ったノカナ?思ったのだ!


 キリスト教社会からの離脱は、この時代において、反社会的であり、とても難しいことだったのじゃないのかな。ましてニーチェの父は神父であったし。しかし、あえてがニーチェがおこなった。ゆえにニーチェ。


 重い荷物を背負わされ、黙々と砂漠を進まされているラクダ、これが現実社会に生きる人への比喩であり、ラクダがシシになるとは、ラクダが余りの理不尽さに反抗して暴れるんだな、そして一切のそれまでの価値観を破壊する、ちぎっては投げ,ちぎっては投げ、ふと自分の体をみたらシシになっていた!


 従来の価値観や慣習に捕らわれないシシはルンルン気分で過ごすうちに、心が軽やかになりまるで幼少の子供のように日々、楽しくすごした。表現としては幼子。


 これが本当の生きる意味じゃないの?おいおい。生きるとはもっと軽やかで、楽しきないと駄目だろ、その為にもっと努力しようぜ!


『永劫回帰』
ニーチェは、キリスト教が目標とするような彼岸的神の世界を否定し、ただこの世界のみを考え、そしてこの世界を生成の世界と捉えた、実存主義だな。永劫回帰(永遠回帰)とは、この世界は、全てのものにおいてまったく等しく、まったく同じことが永遠にくり返されるとする考え方なんだけど、それでもなお生きようとすること、それでもなお!だな、 それがキリスト教価値観から脱することによるニヒリズムの克服して生きる力、権力への意志に繋がると、考えている私です。そうした意欲,意志が必要で大切だとニーチェは考えてのだな。それが下の、


『権力への意志』私が勉強したときは、こう言った。
 それでもなお、そう現実社会を見据えて生きようとする力。キリスト教社会から、その価値観を越え、それらからのニヒリズムを克服し、それでもなお!
日本はキリスト教社会でもないし、長い歴史の中でその価値観で生きているわけでもないので、真実、理解できないのだろうが・・え、あたしも。


 現実社会がいかに過酷であろうとも、神はすべてを見ておられ、その人の死後、すべて等しく安息の地に迎えてくださる。死ねば安息なら、今を生きているって何? 意味ないじゃん。そうじゃねェ、今が大切で、私たちが生きている世界がすべてなんだ!だから、もっと自分を、今を大切にしろよ!おいおい・・もっと「生」を堪能し、生きる喜びを味わってほしい!


『超人』
 著作『ツァラトゥストラはかく語りき』の中で、人は超人の為の架け橋であるとしている。また、この物語では超人は誕生しない。大いなる正午に超人は誕生するが、その今、まさに誕生という所で物語は終わる。ちなみにツァラトゥストラ=超人ではない。
 一切の従来からの価値の転換をなし、新たな創造のもとに、新たな世界を神に代わって誕生させる者、その世界は人が現存する社会において、これならば今一度、生きてみようと思えるような世界だな。
『ツァラトゥストラはかく語りき』の中に、とても有名なんだけど「神は死んだ」という記述がある。神を殺したのはツァラトゥストラ=ニーチェではなく、人々が神を信じなくなったので、神が死んでしまった事を述べている。たしか『市場のハエ』の場面だったかな、
間違ってたらごめん。
『ツァラトゥストラはかく語りき』はニーチェの一連の作品の完結編的な意味合いが大きいが、この作品自体も読み手のとらえ方で意味合いが異なってくるのかな。でも、そうしたことを踏まえ、あえて


で、雑誌等でニーチェの言葉、とかあるんだけど・・・
言葉の前後がなくてその一節のみを乗せて、ニーチェのその言葉の前後がないと、なんか言葉の意味合いが異なってくるような気がするのは私だけ?


 ニーチェの哲学って、いろんなとらえ方が出来るのだろうけど、なんか、これって間違ってない?とか、意味合いがちがわないとか?
アフォリズムを用いた、巧みな散文的表現の作品の、もしくは一文の中から、もしくはその一節だけを用いて、その意味するところが全く持ってニーチェの考えと哲学であるような表現は、いかがなもんかな。


私の解釈が間違っているのかもね。すべてこの記事は私的な見解です。