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ゆうごく古代中国の歴史 秦 なぜ嬴政が統一出来たか


【ゆっくり歴史解説】秦 伝説の時代の秦人たち 秦紀七百年


 紀元前905年に、周の孝王に仕えていた非子が馬の生産を行い、功績を挙げたので嬴の姓を賜り、大夫となり、秦の地に領地を貰ったのが秦邑(現在の甘粛省張家川回族自治県)であったという。


伝説上では嬴姓は舜の臣の伯益が賜ったとされている。それ以前の嬴氏は魯に居住していたとされる。


周朝の属国として、その後秦人と西戎は長くて残酷な戦いをした。紀元前822年に荘公の代で、西戎を破った功により領土が広がり、西垂(現在の陝西省眉県)の大夫になった。」


春秋時代には諸侯になっていた秦だが、中原諸国からは蛮夷の国として、蔑まれていた。代々の秦国君主は主に西戎と抗争の中から西域地方に領土を広げつつ、東の地を目指すことになる。紀元前714年には平陽へ遷都。紀元前677年には首都をより東の雍に置いた。覇者



 春秋時代の穆公は百里奚などの他国出身者を積極的に登用し、西戎を武力と懐柔によって周辺の小国を合併して領土を広げ、隣の大国晋にも匹敵する国力をつけた。晋が驪姫による驪姫の乱で混乱すると、秦は恵公を後援し擁立した。恵公は背信を繰り返したので、これを韓原の地で撃破した(韓原の戦い)。更に恵公が死んだ後に恵公の兄の公子重耳を晋に入れて即位させた。穆公が春秋覇者の一人と言われる所以だナ。



★穆公と百里奚の物語、重耳・晋の文公の物語なんて最高にイイね!


 大国晋が韓・魏・趙の三国に分裂。ここから戦国時代とし、紀元前260年に秦も戦国七雄のひとつに数えられる事になるが、魏が国力を高め、秦を圧迫、東進を阻む事となる。
劣勢を挽回しようと25代孝公は広く人材を求め、魏の公孫鞅を召し抱える事になる。のちの商鞅である。商鞅は行政制度の改革・什伍制の採用などを行い、秦を強力な中央集権体制に変えた。この商鞅の変法運動に始まる秦の法治主義により国内の生産力、軍事力を高め徐々に他の六国を圧倒していくことになる。紀元前350年に遷都し、都の名を咸陽と改めた。


 その後、孝公の子の恵文王が紀元前324年に王をなる。強勢となった秦を恐れた韓・趙・魏・燕・楚の五カ国連合軍が秦を攻めてたが、これを破る。紀元前316年に恵文王は巴蜀に郡県を置き、さらに生産力を上げ、長江の上流域を押さえたことで楚に対して圧倒的に有利な立場に立った。さらに謀略に長けた張儀を登用して、楚を引きずり回して戦争で撃破し、楚の懐王を捕らえることに成功する。この強勢に恐れをなした魏と韓は秦に対して外交において弱腰になるが、張儀が恵文王の子の武王との確執により魏に亡命し、さらに韓との戦いで多くの将兵を失う。さらに恵文王が突如事故死し後継者争いから国力が後退していってしまう。


 紀元前298年、斉の宰相の孟嘗君が韓・魏との連合軍を組織し、秦に侵攻した。秦が函谷関に追いつめられると趙・宋も加わり五国連合軍となったため、秦は使者を送って講和を求めた。この後、東では斉が伸張し、宋を併合するなど、周辺諸国を圧迫していった。
 紀元前288年には一時、斉の湣王が東帝、秦が西帝と名乗るとしたがこの案は斉がすぐに帝号を取りやめたので、秦も取りやめざるを得なかった。この時期は西の秦・東の斉の二強国時代となる。しかし斉は強勢を警戒された上に周辺諸国から恨みを買い、孟嘗君が魏へ逃亡すると、燕の楽毅が指揮する五国連合軍により、都の臨淄が陥落。斉は亡国寸前まで追い詰められ、東の斉・西の秦の二強国時代から秦一強時代へとなってしまう。


★楽毅・孟嘗君の物語もいいね!


 恵文王の子で、武王の異母弟の昭襄王の時代に宰相の魏冄と白起将軍が活躍!連戦連勝!魏より亡命してきた范雎を登用した昭襄王は、その提言を次々と採用。范雎から進言された遠交近攻策である。


 紀元前260年に趙への侵攻軍を率いた白起は、長平の戦いで撃破した趙軍の捕虜40万を穴埋めにして殺した。


 これと時を同じくして敵国の趙で人質生活を送る子楚、昭襄王の孫のひとりを見つけた商人の呂不韋が、子楚に投資をし始める。『奇貨、買うべし』だな。昭襄王が亡くなり、孝文王が即位の後、子楚が荘襄王として即位、呂不韋の愛妾でもあった趙姫との間に、子を儲けた。それが政である。


★一説には政は呂不韋の子供じゃないの?


 紀元前256年、周は滅亡。


 紀元前247年、秦王政が13歳で即位するも、実質的な権力は先代王の宰相となっていた相国呂不韋が握っていた。
 紀元前245年、魏と初陣。韓へも侵攻
 紀元前241年、趙・楚・魏・韓・燕[注 3]の五カ国合従軍が攻めてきたが、撃退。
 紀元前238年に嫪毐の乱に連座して呂不韋が失脚し、政が実権を掌握した。


 紀元前230年、韓を滅ぼした。
 紀元前228年、趙を滅ぼした。
 紀元前226年、燕を攻め滅亡寸前に。


★荊軻の話は泣けるよね・・・


 紀元前225年、魏を滅ぼした[。これにより三晋はすべて滅んだ。


 紀元前223年、楚を滅亡させる。
 紀元前222年に代と燕を滅ぼす。
 紀元前221年には斉を滅ぼす。


 秦王政は中華統一後、自ら皇帝を名乗る。
度量衡・文字の統一、郡県制の実施など様々な改革を行った。また、匈奴などの北方騎馬民族への備えとして、それまでそれぞれの国が独自に作っていた長城を整備し万里の長城を建設、それに加えて阿房宮という増大な宮殿の建築も行った。万里の長城や阿房宮の建設には主に農民を使役させていた。なお焚書坑儒などの思想政策も断行し、ただでさえ過酷な労働と極度の法治主義に儒教弾圧まで加えたことで、全国の不満を高めてしまい、のちの反乱の芽を育てる原因となる。



 秦朝は全国を36郡に分け、中央政府が支配する領土を広げるごとに、新たな郡を次々に置いた。五嶺の南、南越を支配した領土には、南海・桂林及び象郡の3郡を、北に匈奴を攻めて陰山以南を切り取った地には九原郡を置いた。


 紀元前210年、始皇帝が死去。翌年には陳勝・呉広の乱が勃発、全国に飛び火して、騒乱状態となった。


 紀元前206年、咸陽へ入城した劉邦に子嬰が降伏したことで、秦は滅亡した。


★楚漢戦争も興味深い。しかし、これらの歴史的資料は司馬遷の「史記」による所が大かな。


 秦の制度の多くは漢によって引き継がれ、共通する部分は多い。秦帝国の成立は単なる中国統一と言うことに終わらず、皇帝号の創始・行政区分の確立・万里の長城の建築などの点で中国と呼ばれる存在を確立したという意味で非常に大きい。


襄公 紀元前777年 - 紀元前766年   秦が東へ向かう事、中華を統一することは歴代の
文公 紀元前765年 - 紀元前716年  君主の悲願であっただろう。蛮夷の国と、周の最初に
憲公 紀元前715年 - 紀元前704年  は、中原の国々には蔑まれていた。
出子 紀元前703年 - 紀元前698年
武公 紀元前697年 - 紀元前678年   「追いつけ、追い越せ」が目標であったなら、国外
徳公 紀元前677年 - 紀元前676年  の優秀な人材を求めたのも秦の特徴といえる。
宣公 紀元前675年 - 紀元前664年   穆公と百里奚、
成公 紀元前663年 - 紀元前660年   孝公と公孫鞅
穆公 紀元前659年 - 紀元前621年   昭襄王と張儀
康公 紀元前620年 - 紀元前609年   昭襄王と范雎
共公 紀元前608年 - 紀元前604年  
桓公 紀元前603年 - 紀元前577年   こうした歴代の君主の積み重ねが、秦王政の時にな
景公 紀元前576年 - 紀元前537年  って花開くことになる。が、不幸だったのはきっと秦
哀公 紀元前536年 - 紀元前501年  王となった政の性格、きっと極度の人間不信があるの
恵公 紀元前500年 - 紀元前491年  かな。
悼公 紀元前490年 - 紀元前477年   若くして王位を継承するも・・・、
厲共公 紀元前476年 - 紀元前443年
躁公 紀元前442年 - 紀元前429年
懐公 紀元前428年 - 紀元前425年
霊公 紀元前424年 - 紀元前415年
簡公 紀元前414年 - 紀元前400年
恵公 紀元前399年 - 紀元前387年
出公 紀元前386年 - 紀元前385年
献公 紀元前384年 - 紀元前361年
孝公 紀元前361年 - 紀元前338年
恵文王 紀元前337年 - 紀元前311年 王を名乗る
武王 紀元前310年 - 紀元前307年
昭襄王 紀元前306年 - 紀元前251年
孝文王 紀元前250年
荘襄王 紀元前249年 - 紀元前247年
秦王政 紀元前246年 - 紀元前221年 ☆始皇帝