日暮れて途遠し、それでも㋧どこまでも、いつまでも、山谷越え・・・

つぶやき、独り言❓【自分大好き人間】の好きな生き方、

「晏子春秋」内篇問下第四凡そ三十章 第一

「景公問ふ、何を修めば則ち夫の先王の游ならんと、晏子対ふるに耕実を省するを以てす、」


(景公が観游に出でんとして、晏子になすべきことを問う。)


景公が観游に出でんとして、晏子になすべきことを問うて曰く、
「転附と朝舞(二つとも地名)を通り、海に沿って南下し、狼弥(ろうやで斉の東境の邑、ここでの狼弥は当て字、原文の漢字が日本に無い?)に行こうと思う。私が、どんな事を行ったなら、先王の立派な観游を見習う事が出来るだろうか。」


晏子、丁寧に礼をして曰く、
「その心掛けはとてもいいことです。私が聞き及びます事には、天子が諸侯の国を巡って視察することを巡幸と言います。
 諸侯は天子に謁見して、自分の職務について報告する事をします。春ならば農民の耕作の状況を観察して、足りないところを補ってやる、これを游と言います。秋ならば収穫の状況を視察して、足りないところを助けてやる、これを予といいます。游予のなすべき事です。
夏(古の王朝)諺に伝わっているように、農民たちは夏の天子の出游を待ち、望んでいました。不足があれば天子が補って下さったのです。先王が観游に出かけるごとに、その農民救助の行為が諸侯の法度となりました。


 ところが景公の観游は先王の例に反して、民の糧食を奪い、景公の従者は多数で民を苦しめているに過ぎません。貧者は補われず、労者は憩うことが出来ません。
 川の流れを下って遊び楽しみ、帰る事を忘れる行為を『流』と名付け、川を遡って遊び楽しみ、帰る事を忘れる行為を『連』と言います。狩猟に耽って帰る事を忘れる事を『荒』と言います。楽しみを極めて帰ることを忘れる行為を『亡』と言います。


 古の聖王は『流連』の游はありませんでした、また『荒亡』の行いもありませんでした。」


景公曰く、
「解った。役人に命じて公家の倉米を計算させ、貧民の数を帳簿に記載させた。蔵を開いて貧民に与えた穀物、三千鐘(一鐘は約49,7㍑)、老衰したもの七十人を救済したのち、帰途に着いた。