日暮れて途遠し、それでも㋧どこまでも、いつまでも、山谷越え・・・

つぶやき、独り言❓【自分大好き人間】の好きな生き方、

「晏子春秋」 内編諌上第一 凡そ二十五章 第十八

「景公、公阜に遊び、一日に三過言あり、晏子諫む」
 ※公阜は地名   一日に三過言=三度の失言


【晏子が一日に三たび景公を諫めたことを記す】


景公、宮城を出て公阜似て遊び、北面して斉の国城を見て、曰く、
「ああ、自分がいずれ死んでしまう事は、悲しいことだ。」
晏子曰く、
「昔、上帝は人の死をもって善しとしました。仁者は休息し、不仁者は屈服しました。
もし、いにしえより死が無かったら、大公、丁公は斉にずっと君臨し、桓公、襄公、文公、武公は皆、その国の宰相であろうとしたでしょう。
君が粗末な着物を着て、傘を冠り、すきや鍬をもって田の溝や畝をうずくまったりして作業に専念するならば、そんなに死を悲しむ暇などありません。」


景公、憤然として顔色をかえて怒り出した。
それほど時を置かずして梁丘拠(家臣の名)が六頭立ての馬車にに乗ってやってくるのを見て、
景公曰く、
「ぁれは誰だ?」
晏子答えて曰く、
「拠ですね。」
景公曰く、
「どうしてそれが解るのだ?」
晏子曰く、
「このとても暑い日に馬を疾駆させている、これでは馬が死んでしまうし、また傷ついてしまう。こんなに馬を酷使させて馬車を操るのは拠しかいないでしょう。」
景公曰く、
「私と拠は和する者か?」
晏子曰く、
「いや、同です。和とは、一方が甘ければ他方は酸っぱく、一方が薄味であれば、他方は塩辛い味で、違った味の間にかえって五味調和して美味い味が生まれるような関係を和と言うのです。これに反して、一方が甘ければ他方もまた甘いのでは、和とは言えない。これは同であり、そこに本心が無ければ君に対しての摺合わせや、おもねりになります。和して同せずとはこういったことです。」



景公、顔色を変え憤然としていても、日が暮れてきたので、西を向いて彗星を眺めていたが
伯常顯(はくじょうけん、斉の臣)召し出して祈祷して禍を払わせようとした。
晏子曰く、
「無理です、これは天からの教えです。日月の気、風雨はいつ来るかわかりません。彗星が現れるのは、世の乱れを予見するものでなく、天が禍と幸福、吉凶禍福を表して、人事の不敬を戒めているのです。
 今、君がもし、彗星を天象に対する天の戒めとして受け取り、人事を慎み、善政に努めれば、彗星は自ずと消えるでしょう。
 いま君は酒を嗜み、快楽に従い、政治をきちんと治めずして、家臣に任せ、芸人、俳優を侍らせ、天象を不吉なものとして払わせてなお、聖人と言われる人や賢人を遠ざけています。
これでは彗星はきえません。


景公は顔色を変えてなお不機嫌となったと思ったが、晏子がいなくなると、
景公は席を外して、門の陰に立ち、曰く、
「嗚呼、昔にも、公に従い公阜に出かけてきた家臣いただろうが、一日に三度も諫めてくれた者がいただろうか。晏子ぐらいだ、私を真に諫めてくれるのは。」


現約してても、感動的、前章十四、十五ともに人として勤めることを力説し、人間の在りようが主題となっているかな。