日暮れて途遠し、それでも㋧どこまでも、いつまでも、山谷越え・・・

つぶやき、独り言❓【自分大好き人間】の好きな生き方、

「晏子春秋」 内編諌上第一 凡そ二十五章 第二十

「景公、狐白裘を衣て、天の寒さを知らず、晏子諫む」
(狐白裘は、狐のわきの下の柔らかい毛皮のみを集めて作った、コート。とてむ貴重で高価、中国では珍重された。失礼、読みはコハクキュウ)


【景公が寒空に飢寒の民を思わぬことを戒む】


景公は三日降り続く雪空に、暖かな狐白裘を着こみ、階段に座り込んで曰く、
「不思議だな、雪が三日も降り続いて、天は寒くないのかな?」
晏子、すかさず曰く、
「天が寒がるのですか?」
景公は笑っている。
晏子曰く、
「私が聞き及ぶには、古の賢君は自分が満腹の時にも人の飢餓を思いやり、自分は暖かくしていても、人の寒さを思い、自分が安泰であっても他人の労苦を思いました。今、君はそうしたことを思った事がありますか。」
景公曰く、
「よし、わかった。私も晏子の教えに従おう。」
景公は毛皮で作った衣服を持ち出し、蔵米、穀物を出して人民に分配した。
里や家に関係なく、国に住むものには誰彼の差別なく施した。既に仕官している者には一か月分を与え、病人には一年分を与えた。


孔子、これを聞いて曰く、
「晏子は人々の求めるものと状況を明らかにして景公求め、景公はその進言を取り上げて全署した。」



 晏嬰と孔丘は同じ時代を生きた人で、孔丘のほうが若い。晏子は仁と礼を説くが儒家ではない。この時代はまだ儒教の精神は確立していない。また、晏嬰は社稷の臣として時に君主を批判し、また民衆の味方をする所から墨家であったと言われることもあるが、墨家思想も確立以前のはず。晏嬰は独自に古典から導き出した礼や仁という事を尊重したのかな。
 国の執政と言う立場からも、国と民を守る事が課題であり、しいて言えば、為政者よりも民であり、この晏子春秋の中でも斉の国主がやがては田氏に簒奪されることを晏嬰が予感していた記述がみられる。国主が変わっても、民が安寧ならばよしと考えたのかもしてない。国主が田氏に移行するにあたり、大きな内乱があったわけでもなく、歴史的には田斉になってからは国主相続の権力争いや内乱は少なかったような。でも、戦国期も長いから。
 孔子が斉の国に仕官を求めて来たとき、景公は良しとしたが、晏嬰が反対した事実はあって、孔子が晏子を褒めているこの記述は、後世の晏子春秋の編纂者が私的に取り入れたものかもしれない。晏子が生きた時代、孔子は貧乏な流浪の学者であり、晏子が孔子の仕官を反対したのは、孔子の礼が形式的過ぎて手順が煩雑であり、覚えるのも大変で、現実的でないとした理由だったかな。
 ずっと後、漢帝国が起こり、国がある程度に安定してくれば、権威を確定させたり、国を安定させる倫理観からも儒教は必要とされた、だな。