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「晏子春秋」 内編諌上第一 凡そ二十五章 第五

「景公、酒を飲み天災を憂えず、歌の上手な者を召し集め、歌わせて楽しむ、晏子諫める」


【晏子が景公を諫め、霖雨による罹災民の救援につとめたことを記す】


 景公の時、長雨が十七日も続いているのに、景公は困窮する民を憂うる心も無く、日夜酒を飲み、歌舞にふけっているだけだった。
 晏子は国庫貯えの穀物を、被災民に放出したいと、景公に請い、三度お願いしても、聞き入られなかった。
 そしてなお、景公は柏遽(はくきょ・臣下の名)に命じて、国内を廻らせ、歌の上手な者を召し集め、歌わせて楽しんでいた。


 晏子は景公の様子を知って、いきどおり失望して、遂に大夫としての自家の扶持米を罹災民に分け、運搬用の道具(任器)を道路に置いて、民の運ぶのにまかせた。晏子の家の蔵米は尽き、任器だけが路傍にある有様となった。


 自分の馬車は運搬用に提供したので、歩いて景公に会い曰く、
「長雨が十七日も続いて、壊れた家は郷に数十あり、餓えた民は里に数家あります。人民や老幼の者は凍える寒さにも、短衣すらなく、米かすやぬかなどの粗末な食糧すらなく、巡り歩いて彷徨い、徘徊の有様でも、何処にも困窮を訴えるすべを持ちません。
 しかるに君は人民の困窮を思いもせず、日夜酒を飲み、国令を発して歌の上手い者を集めています。馬は倉米を食べ、犬は肉食に満腹して飽き、三室の妾に至ってはよい米と肉と美食に充分と満ち足りていても、人民、百姓・人々は悲惨な有様です。里が困窮すれば、上に有る者はそれを憂い、飢饉を知れば君も国民を救う手立てを考えなければなりません。
 臣、嬰ははじめてお仕えて以来、社稷を思い、また執政となってからは百官を統率してきましたが、未だ治績が上がらず、民の飢饉困窮を君に伝える事が出来ませんでした。君が酒を飲んでいるあいだに、民心を失う事になってしまいました事、これは国政を預かる嬰の大きな罪です。」


 晏子は景公の前に出で、辞任を願い、遂には走り去ってしまう。景公も大急ぎで晏嬰を追ったが及ばず、馬車を急き立てて晏嬰の家まで追っかけるも及ばなかった。道すがら景公が目にしたのは、晏子の家の蔵米は人民に分配しつくされ、任器は道路に置いたままになっていた風景だった。
 景公は五方に通じる大路に向かい、そこで晏子を見つけ、車から降りて晏子に従いつつ、曰く、
「私が間違っていた、罪は私にある。嬰の三度の願いにも聞く耳を持たず助けず、為すべきことをしなかった。願わくは再度、私を助けて国家と人民を救い、良い方向にと向かうように今後も力を貸して欲しい。私は斉国の粟米・財貨を、そして物資を人民に贈りたい。分配はすべて嬰に任す。」


 晏子は景公に挨拶をすると急いで帰り、稟(りん・官職名)に命じて人民のもとを巡らせ、家に年貢として徴収している養蚕の布と糸がありながら、食べる物が無い者には一か月分の米の蓄えを与え、布も糸もない家には一年分の食を与え、薪の蓄えのない民には、薪を与え、長雨を耐えられるように施政した。また柏(官名)に命じて民の家を巡らせ、風雨を防ぐことの出来ない家には、金品を与えた。
 罹災民の調査が不十分であったり、救援物資の配分を減らしたり不正をする者には死罪にした。また三日の期限に配給が遅れた者は命令にしたがわなかった者として処罰した。


 後、景公が宮屋を出て民間に宿り、生活を簡素にして罹災民救援に努め始めた。肉を減らし、酒をやめ、馬は倉米を食させず、犬には肉と粥をやめさせ、近臣の俸禄を減らした。また食客への贈物をも減らした。
 三日のち、役人が景公に報告した。罹災民は数万に及び、穀物の配給は97万鐘(鐘は春秋時代の升目の名、一鐘は約49.7リットル)、薪は馬車三千乗(乗は車の数を示す)、
倒壊した家屋は二千七百軒、金(貨幣の単位)を持ちうること三千。


 景公は然る後、私邸においては、災害を憂いて食事の膳を減らし、舞楽もやめて、謹慎生活をした。
晏子が願い出て言うには、
「歌舞をもって君を喜ばすだけの、近臣は遠ざけて頂きたい。」
景公は晏子の言を聞き入れ、歌舞するものを除き、左右に近習する太鼓持ちを関外に追放した。



※ 晏子が景公を諫めて、罹災民の救援に努めたことを記しているし、救援の方法も記されている。この細やかな政策は晏子の発案だろうと言われている。晏子がいかに民を想い、施政していたかが伺える。晏子が晏子たる所以。